身内に不幸が起こりそうでして

僕の話に得るものはなく。ただ似たような状況に出来わして同じような悩みを抱えた人が、まぁそんなもんだよねって少しだけ心が軽くなればいいな、ってその程度の話。

 

両親から親戚に不幸が起こりそうだという話を聞きました。母の弟の奥様。血は繋がっていないが私の叔母にあたる人でして。叔母は元々がんを患っており、発覚時から三年の余命を告げられていた身でした。なので流行りの感染症ではありません。けど、今のご時世的、大きな病院は家族であれ面会を拒否されているところが多いとか。叔父さん家族は病院から呼び出されてもって今月末だと告げられた、とのことでした。その状況ゆえ、月を股越し叔母の命は持たせることが困難であることは、また聞きである自分にも想像できたました。

 

叔母さんが入院している地域は私の住んでる地域からはJR・私鉄を乗り継いでてこてこいっても2時間もかからない距離です。本来なら叔父さんに見舞いに行っていいか?伺いを立てるところなんですけど、当然、その選択肢ははなからありませんでした。叔父さんは母へ葬儀自体も行ず、即火葬場に行くことになるだろうと告げてました。ご時世的な話、誰が悪いわけでも無いんだけど、おそらく最後は骨壺と対面することになるであろう叔父を思うと不憫でなりません。葬儀や法事というものはしきたりというよりは、残された遺族の心を整理するために必要な時間だと思うのです。人間というものは言うほど割り切れて生きてはいけないと感じるもん。

 

母が私の父に電話変わるね?って叔父さんに尋ねたところ、「兄さんと話すと泣いてしまうからやめとく」と告げたあたり、叔父さんも覚悟はとっくに決めているけど、それでも割り切れないのですね。こんなもんどうもこうもしようもないよ、割りきれないもんは割り切れないもん。

 

自分が叔父さんに何かできることはあるんだろうか?少し考えてみたものの叔父さんへ直接できることは何一つもないんですよね。叔父さんには姉(=私の母)がいるし、娘がいる。役目が違うのだ。自分の役目は叔父さんと直接関わることになる両親の相談なりちょっとしたサポートですもんね。人間やれることなんで限られている。不幸ごとにおいてたいていの人は、ちょっとしたことが少しずつしかできないのだ。自分が手の届く範囲を無理なく支援することが叔父さんの助けになると、自分の周りを信頼するしかないのだ。無力感はどうしてもつきまとっちゃうけどね。

 

ここまでが昨日の夜の話。自分自身は叔母や看取る叔父のことを不憫に思いつつも そんなにショックをうけていないように思ってました。人の死の話って実感わきにくいからね。心のどこかで拒否ってしまうからなのもあるんだろうけど。

 

それなのに昨晩は寝つきが悪いこともあり、だらだらと夜更かしをしてた。なぜだろう?

 

 ボーと考えて思い当たる節が一つ、叔母さんの話をする母の頭に異常に白髪が増えて髪が薄くなっていたのを目撃しておりショックだったのです。男は大体マザコンだという話をよく耳にします。叔母の死の話をする中で母の老いにショックを受けた自分もきっとマザコンなのでしょう。老いにショックを受けている自分が、自分の両親に余命が宣告されたとき、自分に覚悟決めて行動できるのか?って不安に思ってしまったのです。

 

こうなると、自分はいったい何にショックを受けているのだろう?ほんとに叔父叔母を想い悲しんでるんだろうか? 自分の身近な存在をただ心配してるんだろうか?と、自問自答を行うわけです。10代20代のころであれば、こんなことを考える自分は冷たい人間じゃないか?って自己嫌悪に陥ってたりもしてました。自分はもっとできるって心の中に根拠のない全能感があったからだ。もっとできるのになんでできないんだ!?みたいな。見当違いの思い込みなんですけどね。今となっては謎だ。あの感覚は。

 

30代にもなれば良くも悪くも今の自分に出来ること・思考パターンってのが分かってしまっているので、身近な存在に憂いを感じる自分をとりあえず受け入れてしまうわけです。

 

受け入れる=頭では理解できているんだけど、割り切れずに考え込む=心が頭と剥離して整理が追い付かずに考えが発散してしまう自分の性分も社会生活する上でしゃーない税金みたいなもんだと、ある程度受け入れつつ今ボンヤリしているわけです。

 

しかし、心と頭が剥離しちゃう状態はなんなんでしょうね?心がちゃんと機能しきれてないような気もしますが時間が解決してくれる問題ではあるので、むしろ心が必死にその落ち着くまでの時間を必死に稼いでくれているような気がします。

 

そんなもんだよね。って考えることくらいしか、僕にはできないかもしれないって思いながら今宵もふけていく。

 

おしまい。